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cold room 説明

数年前のイベントで発行したコピー本です。
冷蔵庫内の擬人化と言う事で、以下に登場人物紹介です。

シュウ:シュークリーム(弟)
クレア:エクレア(姉)
田子:にんにく(転校生)

書いた身としてはにんにく×シュークリームのつもりでしたが、読み返してみたらほんのり過ぎてCPになってませんでした。何故だ。
最後に軽くドンデンがあるので順番通り読んで頂いた方がいいかと思います。
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cold room 1

 冷たい。
 姉さんの身体はいつだってひんやりとしている。僕にはそれが丁度いい。
 血の繋がりがあるのかないのか。僕たち姉弟は曖昧だ。
 姉さんが漆のように艶やかな黒髪をしているのに反して、僕は生まれつきの茶髪。おまけに酷い癖っ毛だ。二人とも肌の色は白いが、質感は異なっている。
 僕の肌は子供のような乳白色だが、姉さんのは磁気のように艶かしく手の平に吸い付くようだ。
 それでも傍目には似て映るのだろう。僕たちを見た人々は「天使のよう」だと口を揃えて言う。そんな馬鹿な事があるものか。
 天使がこんなにも冷たく美しく、魅惑的である筈がない。もしそうだったとしたら人は最初から堕落している。
 身体の弱い姉さんは学校に通えない。季節に関係なく摂氏10度に保った部屋の中で、本を読んだり音楽を聞いたりしている。口をきくのは僕だけ。
 その所為なのか姉さんには『ルール』が存在しない。モラルもタブーも感じない姉さんは、全てのものから自由でいられる。
 弟を愛する事にも躊躇いなどない。
 『シュウ、』
 腰まで届く姉さんの長い髪の顔を埋めていると、不意に名前を呼ばれてギクリとする。
 感情のこもらない、ただひたすら甘い声。
 おそるおそる顔を上げ目を向けると、不思議そうにキョトンと首を傾げている。
 「クレア姉さん、何……?」
 媚びを含んだ視線で問い返す。
 姉さんの身体が弱くて良かったと僕は思っている。だって姉さんはこの部屋から出られなくて、その世界にいるのは僕だけなんだ。
 僕は誰よりも姉さんを愛している。それはもう異常と呼べるほどに。
 『元気がないから、何かあったの?』
 年上らしく僕を気遣って心配する言葉。いつもならそれに胸がときめき息が苦しくなる。だけど今日だけは例外だ。
 意識せずに眉を寄せて溜め息を零してしまう。
 姉さんの言う通り、厭な事があったのだ。
 僕のクラスに季節外れの転校生がやって来た。背が高く、眉のキリッとした男らしい顔立ち。まるで興味などなかったが、余りに周囲の女子がキャーキャー煩いので見るともなく眺めていた。だが、次の瞬間。
 僕は驚きの声を飲み込むのに必死だった。
 黒板に書かれた転校生の名前。それは姉さんの主治医と同じ「田子」だったのだ。
 両親の離婚に伴い祖父母の言えに越して来たのだと言う。ならば、季節外れの転校生なのも頷ける。そして、やはり姉さんの主治医の孫と思っていいだろう。何故なら昨日、主治医が「暫く孫を預かる事になった」と話していたからだ。
 その孫が同じクラスに転入して来るとは厭な偶然だったが、それは僕にはどうしようもない。だが、事もあろうに田子は姉さんの事を知っていた。
 放課後になって呼び止められ何事かと振り返った僕に田子はこう言った。
 「昨日、チラッと見掛けたけど美人だったな」
 診察に訪れた姉さんを盗み見たらしい。その事実に腹が立ったし、田子が姉さんの事を性的対象として捕らえているらしい事にも腹が立った。無神経だろう。
 誰が誰を見てどう思おうとそれは個人の勝手だ。しかし、その事を弟に告げるのは最低だと思う。
 罵倒してやりたいのを何とか堪えて教室を飛び出した。背後で田子が呼び止める声が聞こえていたけど、そんなものは無視した。
 幾ら外見が良くても、僕の中で田子はデリカシーのないイヤらしい奴として分類されたのだ。
 だから、そんな奴と口をききたくない。そう思っただけだ。
 「何にもないよ、いつもと同じ」
 緩く首を振ってニッコリと笑顔を浮かべる。
 これ以上、不愉快な事を考えたくない。田子の存在ごと隅に追いやって姉さんの髪に指を絡ませる。
 姉さんはいつも黒に近い茶色の服を着ている。たとえるならダークビターのチョコレートのよう。
 フリルやレースが過剰なまでにあしらわれた衣装を身に纏う姉さんは、本物のお人形のように見える。だが、それは日本人形に西洋の衣装を着せたような和洋折衷、ミスマッチ。一種の倒錯なのかも知れないが美しい事に変わりはない。そして、その美しさを増幅させるアンニュイ。
 それに口付けようとした瞬間、極上の空気を打ち破るようなベルの音が聞鳴り響く。玄関からだった。
 誰とも知らぬ訪問者に軽く殺意を覚えるが、放置する訳にも行かない。
 溜め息をついて立ち上がると、姉さんが不安そうな目で僕を見つめている。
 病院とこの部屋の往復だけで、ほかに出かける事のない姉さんは極度の人見知りだ。僕以外の人間と会うのを恐れている。
 指を強張らせる姉さんを安心させようと小さく微笑み、玄関へと向かう。
 何かのセールスだったらどうしてくれよう。
 姉さんを怯えさせ、僕の甘い時間を奪った訪問者に対する怒りがフツフツとわき起こる。笑顔の下ではらわたが煮えくり返りそうだった。

cold room 2

 乱暴にパネルを操作して訪問者の姿を確認する。
 最悪だった。
 背が高過ぎるのだろう、少し屈んでこちらを覗き込んでいるのは田子だった。
 いまどき珍しい、短く刈り込んだ髪型と真っ直ぐな目。それは純粋さと剣呑さを含んだ諸刃の剣だ。見る者を萎縮さえ怯えさせる。
 居留守を使いたかったが、モニターのスイッチが入った事は訪問者にも分かる仕組みになっている。 それに田子の表情を見る限り、そんな事では引き返しそうになかった。
 諦めの溜め息をついてマイクで問い掛ける。
 「何の用」
 「届け物だ」
 初対面の田子が僕の家を知っていたと言うだけでも驚きなのに、その上、届け物があると言う。だが、考えてみれば姉さんの主治医の孫なのだ。住所は幾らでも調べようがある。
 「何を」
 勝手に住所を調べられたという腹立たしさもあって素っ気なく応対すると、田子はそれを意に介した様子もなく懐から何やら取り出す。
 白いハンカチだった。
 レースで縁取られ、隅に薔薇とアルファベットが刺繍されている。それを見た僕は考える余裕もないままに玄関の鍵を外す。
 「返せ!」
 飛び出した勢いのまま手を伸ばし、ハンカチを奪おうとする。姉さんのだったからだ。
 きっと病院に忘れたのを田子が見つけたのだろう。届けてくれた事に感謝するべきなのだろうが、姉さんの物をこんな男が手にしているという事実が許せなかった。
 僕の剣幕に驚きもせずに田子がヒョイとそれを躱してしまう。勢い、僕は田子に抱きつくような形になってしまうが、そんな事を気にしても仕方ない。
 ハンカチだけを見つめて必死になって手を伸ばす。
 「落ち着け、」
 耳元でそっと囁かれ、その近さにギョッとする。耳を押さえながら慌てて飛び退く。
 「どこでそれを手に入れた」
 噛み付かんばかりの勢いで問い詰める。
 姉さんの物に触れていいのは僕だけだ。そう睨みつける僕の視線に田子が肩を竦めて見せる。
 「人聞きの悪い事を言うな。昨日、じいさんの病院に忘れたのはそっちだろ」
 姉さんは確かに昨日、病院に行った。そこでハンカチを忘れてしまうというのはありがちなのかも知れない。だからと言って田子がそれを持っている理由にはならない。
 「じいさんに頼まれたんだ。同じ学校だから返してやれって」
 学校に通っているのは僕であって、姉さんではない。だが、些細な間違いを指摘出来るほど僕は冷静ではなかった。
 「なのに声掛けた途端、逃げ出すから驚いた」
 苦笑めいたものを浮かべて呟く田子から目を逸らし深呼吸をする。
 そして怒りで身体が震えそうになるのを必死で堪え、何とか声を絞り出す。
 「捨ててくれて構わない」
 そう言ってドアを閉めようとするが、田子が素早く動いてそれを阻む。
 「刺繍入りのハンカチだ。持ち主に返した方がいいだろ」
 僕だって可能ならば取り返したいだ。しかし、田子が触れた物を姉さんに渡すのは気が引けると言うか絶対に厭だ。だって、そんな事したら姉さんが汚れてしまうような気がするのだ。
 「いらないなら俺が貰うぞ、」
 大男が刺繍入りのハンカチをどうするのだろう。そう思ったのが顔に出たらしい。田子がクスリと口元だけで笑って応える。
 「何だか甘いにおいがするし、寝る時に使わせてもらおうかな」
 それに何を仄めかされたのかを悟り、頭にカッと血がのぼる。
 「駄目だ!」
 即答だ。しかも大声。
 姉さんのハンカチで自慰するなんて、そんなの絶対に許さない!
 「冗談だ、ほら」
 僕の剣幕に怖じ気づいた訳ではないだろう。だが、田子が思ったよりも素直にハンカチを差し出して来る。それを引ったくるように奪い取り、ポケットに押し込む。
 田子が触ったのだから洗濯しても姉さんには渡せない。これはあとでゴミ箱にでも入れてしまおう。
僕がそんな事を考えている隙に田子がドアを押し開け玄関に入り込む。
 「おい!」
 慌てて呼び止めるが、気にする様子もなく靴を脱ぐ。それを揃えながら「部屋はどこ?」と訊ねて来る。
 「困る、勝手に上がらないでくれ」
 この短いやり取りで厭と言うほど分かっていた。
 僕は田子が苦手だ。
 姉さんの事を知っていたからとか関係ない。田子は呆れるほどのマイペースで、こちらの都合などお構いなしだ。
 「届けてやったんだから少しぐらい構わないだろ」
 そう言われてしまったら僕は何も言い返せない。リビングに通じるドアを指差し、田子がそちらに向かったのを確認してから姉さんの部屋に行く。

cold room 3

 玄関で大騒ぎしたのだから姉さんの耳にも届いていたらしい。
 不安そうに顔を曇らせて僕を見つめ返して来る。それに何でもないと説明にもならない言葉を告げて、「部屋から出ないで」と続ける。僕の言葉に姉さんが小さく頷く。
 家から出る事のない姉さんは極度の人見知りだ。
 対人恐怖症なのかも知れない。だからわざわざ言わなくても部屋から出る筈などないのだが、僕は少しの安心が欲しかった。
 姉さんの部屋を出ようとして、ポケットの中にハンカチがある事を思い出す。
 「これ、病院に忘れた?」
 姉さんの手が触れない程度に離れた所で取り出して見せる。
 刺繍されたアルファベットは姉さんのイニシャルだし、薔薇の花も姉さんの好きなものだ。だから間違いないと思ったのだが、それを見た姉さんは緩く首を振る。
 「他の所に忘れた? それとも落とした?」
 確認のために重ねて問い掛けるが、姉さんは首を振るばかりだ。
 「……もしかして姉さんのじゃないの?」
 質問の内容を変えると、漸くコクンと頷く。
 どういう事なのか考えたかったが、余り待たせて田子がこの部屋に来られても嬉しくない。
 有耶無耶にしたまま姉さんの部屋を出てリビングに向かう。
 リビングは普段、使っていない。食事はキッチンで済ませるし、その他の時間は姉さんの部屋に籠っている。
 その所為なのか、久しぶりに入ったリビングは少し埃っぽい。
 田子は唯一置いてあるソファに腰掛け、リモコンを手に何やらしている。エアコンの温度を調節しようとしているのだろう。
 気温10度は真冬ならば寒いというほどではない。だが、屋内という思い込みが体感温度を下げてしまう。
 「電池抜いてあるから無駄だよ」
 僕の言葉に田子が不思議そうな視線を向けて来る。
 「どの部屋も同じ温度に設定してある。寒いと思うなら帰ってくれ」
 もともと招いた客ではないのだ。田子が帰ると言うなら、それは僕にとって歓迎すべき事だった。
だが、田子は不敵な笑みを浮かべてリモコンを投げ出す。
 「雪国育ちを舐めるなよ」
 そう言えば田子はどこからか引っ越して来たのだった。それが雪国だとは思わなかったが、言われてみれば確かに都会者には見えない。
 何もダサイと言うのではない。寧ろその反対だ。
 人口密度の高い都会では誰も彼もが無関心だ。雑踏を歩いて誰かと目があった事など一度もない。だが、田子は興味があれば遠慮なく見つめ観察するのだろう。その真っ直ぐな目で。
 「ここより寒い?」
 雪国。
 それがどこなのか分からなかったが、テレビのニュースか何かで見たのだろう。雪に覆われた町並みを思い浮かべて思わず問いかけてしまう。
 降り積もる雪に覆われてどこもかしこも真っ白。
 雪を綺麗と思うのは普段、接する事がないからだ。雪が沢山積もれば、交通機関は麻痺し道を歩くのもままならないだろう。屋根に積もったそれは重みを増して家屋を潰してしまう事もあると聞いた。
 僕は雪の多い地域に行った事はないが、一つだけ分かる。
 それは間違いなく寒いと言う事だ。
 「ああ、比べ物にならないな」
 僕の考えを見抜いたように田子が頷く。だが、続けられた言葉は意外なものだった。
 「こっちに来た時、暖かいって思ったぐらいだ。これじゃ春になっても気付かないんじゃないかって」
 「どうして?」
 「雪が溶けないから」
 そりゃ、ここでは雪なんて滅多に降らないんだから溶けようがない。だけど、田子が言ってるのはそういう事ではないのだろう。
 「春が好き?」
 「好きだよ、春だけじゃない。夏も秋も、そして冬だって好きだ」
 「寒いのに?」
 「シュウだって寒いのが好きだろ」
 ごく自然にそう言われて頷いてしまう。確かに僕は寒い方が好きだ。
 だけど、すぐにハッとする。どうして田子が僕の名前を知っているんだ。

cold room 4

 姉さんの主治医から聞いたのかも知れない。でも、僕は付き添いで行った事すらないのだ。そうすると今度は、どうして主治医が患者の弟の名前を覚えていたのかが不思議だった。
 「でも、少し寒過ぎる。何か理由でもあるのか?」
 田子の声に僕の思考が途切れてしまう。
 「え、何?」
 「これじゃ冷蔵庫だ。どうしてこんなに気温を低くするんだ」
 「姉さんが、」
 そこまで言って思わず口ごもる。
 田子に姉さんの事を話したくない。だが、それ以上に僕がそう言った瞬間、田子の顔つきが変わったのだ。食い入るように僕を見つめて来る。
 「暑いと汗を掻くだろ、それが嫌いなんだ」
 姉さんはどんなに暑くても汗なんか掻かないだろう。だから、汗を掻きたくないのは僕だった。
 人形のような姉さんと一緒にいる為には僕自身も人形のようになる必要がある。
 僕の説明に納得したのかどうか、田子は小さく頷くだけで何も言わない。
 「それで、何の用だよ」
 何となく気まずい空気が流れている。そもそも田子を部屋に上げる理由なんかないのだ。今すぐにでも追い出してしまいたい。だが、どう見ても僕と田子では勝負にならない。身長も体格も違い過ぎる。
 「じいさんに様子見て来いって言われたからな」
 田子の言う『じいさん』とは姉さんの主治医だろう。どうして医者でもない孫にそんな事を頼むのか不思議だったし、依頼された内容からして田子が話をするべきなのは僕ではなくて姉さんの筈だ。
 それにも関わらず田子がソファに座ったまま動こうとしない。
 「様子って、どうして」
 沈黙に耐えかねてそっと訊ねると、田子がどうでもいと言わんばかりに首を振る。
 「さぁ……年が近いからどうこうって言ってた気がするけど、良く分からん」
 「ふぅん、」
 そりゃ主治医の年齢を思えばその通りなのだろう。だが、そこに真意があるとも思えない。
 曖昧な相槌を返して、ふと思いつく。
 「どこに住んでたの」
 田子は雪国としか言わなかった。日本列島は長いのだ。雪の降る地域は沢山ある。
 そう思ったから質問しただけなのだが、それが意外だとでも言うように田子が視線を向けて来る。
 何か変な事を訊いたのだろうか。田子の揺るぎない視線に晒され、失態をおかしてしまったような不安に陥る。そんな僕を見つめて、田子がフッと笑って答える。
「青森」
 その地名で思い浮かぶのは白鳥飛来とねぶたぐらいだ。
 「……標準語うまいね」
 「嫌味か、それ」
 そんなつもりはなかった。
 田子は僕と変わらぬ、聞き取りやすいアクセントで話している。だから正直な感想だったのだが、考えてみれば上京して間もないのだろう。嫌味と聞こえても無理はないのかも知れない。
 「えっと、東北弁……津軽弁だっけ?」
 テレビで聞きかじった言葉を口にすると、億劫そうな溜め息が返って来る。
 「それで話しかけてもシュウには聞き取れないだろ」
 「そんな事ない。何か話してみてよ」
 僕の我が侭に暫し思案して、田子が口を開く。
 「めごいやつだな。けやぐになりてばってはずかしいな」
 「……何?」
 聞き取れなかった。辛うじて音としては拾えたが、意味まで理解するのは無理だった。
 目をパチパチさせる僕を見て、田子が苦笑を浮かべる。
 「何でもない、気にするな」
 田子の様子を見る限りたいした意味はなかったのだろう。挨拶か何かだったのかな。
 「それより具合はどうなんだ」
 「え、」
 主治医に言われて来たのだから質問の対象は姉さんなのだろう。でも、姉さんは昨日も病院に行ったのだ。たった一日で変化するような病気ではないのに。
 「別に、余り変わらないよ」
 これで田子の用件は全て済んだ筈だ。そろそろ帰ってくれないかな。
 そう願う僕を無視して、田子は依然としてソファに腰掛けたままだ。
 「シュウ、」
 田子が真剣な顔で僕の名前を呼ぶ。そんな声で呼ばれたら意味もなくドキッとしてしまう。だけど、何とかそれを包み隠して僕は知らん顔をする。
 「姉さんに会いに来たんだろうけど無駄だよ」
 この一年間、姉さんは僕としか口をきいていない。親に言われて渋々、病院には通っているものの、そこで誰かと言葉を交わす事は皆無だった。
 「分かってるよ、そんな事」
 田子の返事に僕の方が肩すかしをくらってしまう。

cold room 5

 姉さんに会えないと分かっているのに、その様子を見に来たと言うのか?
 やってる事と言う事がチグハグな奴だな。
 「わざわざ来てくれたのに悪いけど姉さんは誰と も口をきかない。昨日だってそうだっただろ」
 「俺が様子を見に来たのは、お前だよ」
 「どうして僕、」
 キョトンと問い返すと、田子が組んでいた足を降ろし僅かに身を乗り出す。
 その目にジッと見つめられ、僕は俄に落ち着きを失ってしまう。
 僕を見てどうすると言うんだ。僕は病人じゃない。
 「昨日、病院に来てただろ」
 「……姉さんが、診察に」
 何とかそう答えると「成る程ね」と田子が相槌を打つ。何が成る程なのか分からず、僕は首を傾げるしか出来ない。
 「お前の中ではそう整理されてる訳か」
 「どういう意味」
 整理とか言われても何の事だか分からない。僕は事実をありのままに話しただけだ。
 「病院に来てたのは誰だ」
 「姉さん」
 「それは一人で?」
 矢継ぎ早に繰り出された質問に思わず頷いてしまう。姉さんは病院に行く時、いつも一人だ。
 「じゃ、お前はいなかったんだな」
 「そうだよ、それが何」
 「じゃ、どうして姉さんが病院で口をきかなかったって知ってるんだ?」
 「……え?」
 何を問われたのか分からない。
 病院で姉さんが一言も喋らないのはいつもの事だから。そう答えようとして舌が引き攣る。だって、僕は一度も病院に付き添った事がない。
 「俺は昨日、遠目に見ただけなんだけど……まぁ、可愛いって思った。小柄と言うほどではないんだろうけど背は余り高くない。肩幅も狭い。黒くて長い髪とヒラヒラがいっぱい付いた服。スカートは長くて足首まで隠していた。何が言いたいか分かるか?」
 分からない。ただ田子が言うのは姉さんの特徴だとは分かる。
 僕の顔色から何か察したのか、小さく頷き言葉を続ける。
 「これって変装なんじゃないか?」
 変装……誰かが姉さんのふりをして病院に行ったとでも……?
 でも、何の為に。
 だいたいからしてそんな事してもすぐにバレてしまう。姉さんは一年近く病院に通っているのだ。
 言葉を交わす事がなかったとしても看護士とは顔見知りだろうし、主治医の目を誤摩化すのは不可能だろう。
 「会えないのは構わない。だけど質問していいか?」
 「何……、」
 田子の口調に気圧されて僕の声は小さく震えている。何だか厭な予感がするのだ。今すぐここから逃げ出したい、そんな衝動に駆られていた。
 「今、シュウの姉さんはここにいるのか?」
 「いる……クレア姉さんは人見知りだから自分の部屋にいる筈だよ」
 「幾ら人見知りでも少し静か過ぎないか」
 確かに。言われてみれば物音一つ聞こえない。
 いや、姉さんは元々が物静かな人だから当然だ。しかし気配すら感じ取れないのは珍しい。
 どんなに離れていても僕は姉さんの存在を近くに感じていた。それなのに田子に言われてみると、姉さんがすぐ近くにいるような気が全くしないのだ。
 「お前は一体、誰と暮らしているんだろうな?」
 「見て来る」
 まさか僕に黙って外出する筈などない。姉さんはこの部屋から外に出る事などないのだから。
 でも、一度覚えた不安は拭いようがなく、僕は田子にそう言い残し姉さんの部屋に向かう。
 白いドア。
 気温の所為で金属製のドアノブは背筋が震えるほど冷たい。それを回して部屋に入り、姉さんの姿を確認しようとする。
 「……姉さん?」
 いない、誰も。
 部屋の中には大きな姿見があるだけで、あとは寒々とした空気が漂っている。
 「隠れてるの?」
 声を掛けながら部屋の中に足を踏み入れる。そんな僕の肩を後ろから掴み、田子が耳元でそっと囁く。
 「誰もいない、シュウの姉さんは最初からここにはいなかったんだ」
 そんな筈ない。
 姉さんは僕が生まれる前から存在して、ずっと一緒に育ったんだ。
 さっきだってここで話をしたし、姉さんの髪に触れたばかりだ。
 「確かに、シュウにはお姉さんがいる。でも、一年前に結婚して引っ越しただろ?」
 百合の花。白いドレス。
 おめでとうと声を掛けたらはにかんだ笑顔を浮かべて左手の指輪を撫でていた。
 ……この記憶は何だ。姉さんはいつだって黒っぽいダークブラウンの服装しか身に着けなかった筈じゃないか。
 「お祝いしてやったんだろ、だったら認めてやれよ」
 「認める……何を」
 「シュウの姉さんは結婚して新しい生活を送ってるんだ。幸せなんだ」
 ガクリと膝が曲がってしまう。床にしゃがみ込んだまま、小さく息を吐き出す。
 「そう……だったら、いいんだ」
 全部、僕だった。
 小さい時からずっと一緒だった。二人きりで過ごして来たのだ。僕は姉さんがいない事を認めたくなかっただけなんだ。
 黒い鬘とドレスを身に着け病気のふりをして閉じこもっていた少女。僕だ。
 「お前はお前で新しい生活を始めないといけないんだよ」
 僕の肩に腕を回しながら田子が小さな声でそう囁く。
 新しい生活……一人でいるのに慣れろと言うのか。無理だろう。
 一人きりなんて淋し過ぎる。
 「大丈夫、俺がいる。俺がシュウと一緒にいてやる」
 その言葉に絡まり付いた腕をほどいて、田子を振り返る。
 何だか切なそうな顔をしている。捨てられた子犬みたいだ。
 「どうして?」
 「言っただろ、遠目で見ただけで可愛いって思ったんだよ」
 田子の言葉を理解するより先に、僕の口からクスッと小さな笑いが漏れる。
 「もしかして一目惚れ?」
 「何とでも言え」
 おかしい。背が高くて力も強そうなのに、田子は僕の言葉に照れているようだ。
 クスクスと笑い続ける僕の顎を捕らえて田子が言う。
 「唇が青い。本当は寒いんだろ」
 「うん、ちょっと……温度上げようか」
 もう気温を下げる事に意味はない。
 エアコンの温度を少し上げて、何か暖かい飲み物を作ろう。そう思うのに、立ち上がる事が出来ない。
 何故なら田子がそのまま抱きしめて来たからだ。
 「こうする方が手っ取り早い」
 そう呟いて僕の肩に顔を埋めて来る。じんわりと温度が伝わって、何故かそれを心地よいと思ってしまう。
 寒い部屋。
 でも、僕がここに閉じこもる理由なんて、もうないんだ。
 「雪って冷たい?」
 「ああ」
 問い掛けると、僕の耳元で田子が頷く。
 きっとそうなのだろう。一面、真っ白に覆われた世界は、この部屋よりも寒いに決まっている。
 それでも田子が一緒なら、寒いとは感じないだろう。
 「今度、連れてって」


fin

miu 説明_1

過去に出したコピー本からです。
BLを意識して始めて書いた物なので、生温いですがそういう描写があります。
タイトルに深い意味はありません。強いて言うなら冒頭の単語がたまたま好きな歌と一緒だったという事ぐらい。

登場人物紹介
佐伯 主人公
須田 いじめっ子
卯木 生徒会長

miu 1

 嫌いだ。
 こんな学校、こんな世界。
 物心付いた頃から、僕は孤独を抱えていた。疎外感といつも一緒だった。何をしても、どんなに頑張っても、誰も僕に見向きもしない。世界は理不尽に満ちている。
 高校に入学して間もなく、僕は上級生のグループに目を付けられた。
 成績がいいから、顔が女みたいだから。そんなどうでもいい理由で暴力を振るう。
 グループの中心は三年の須田ヒカリだ。僕からしたら、須田の方が女みたいな顔をしていると思う。それも美少女だ。
 瞳と同じなので栗色の髪は生まれつきなのだろう。全体的に色素が薄いらしく、肌は透き通るように白く、唇は赤くふっくらとしている。体つきもどちらかと言えば華奢な方だ。
 客観的に見て、須田と僕は顔立ちが似ている。そんな筈はないのに生き別れの兄弟かと思ってしまった程だ。それなのに、強者と弱者に別れてしまったのは、ただ単に僕にツキがなかったのだ。
 須田の父親は大企業の社長だという噂だ。学校に多額の寄付をしていると言う。その所為なのか、教師ですら須田に注意出来ない。誰も須田を止められないのだ。
 須田は我が侭な上に高慢で自己中心的だ。取り巻きに囲まれ、女王様のように振る舞っている。その逆鱗に触れるのを恐れて、誰も僕を助けてはくれない。
 今だって僕を取り囲んで殴ったり蹴ったりしている。きっと、何をしてもいいサンドバッグだとでも思っているのだろう。そうでなかったら、どうして薄ら笑いを浮かべていられるのか。
 姑息にも、制服で隠れる所ばかりを狙って来る。そして稀に僕の持ち物を取り上げ壊す。おかげで僕は財布を持ち歩かなくなった。
 「面白くないな」
 旧校舎のトイレに連れ込まれ、散々殴られたあとだった。
 壁に凭れて腕を組んだ須田が唐突にそう呟く。その言葉に全員が動きを止め、須田に注目する。
 「何かマンネリだよね、もう」
 トンと床を蹴って背中を浮かせる。言葉の通り、須田の顔には退屈そうな色が浮かんでいる。
 僕に飽きてくれたのかと、少しだけホッとする。
 最初の時こそ抵抗して泣き叫んだが、今はそれもしない。声も上げず、何をされても人形のようにジッとしていた。気紛れな須田はそんな僕の反応に飽きたのだろう。だが、続けられた言葉は僕の予想を裏切っていた。
 「剥いちゃってよ」
 子供のようにあどけなく言う須田に取り巻きの視線が集中する。何を言われたのか理解出来ないのだろう。それは僕も同じだった。
 剥くって、何を?
 怪訝な顔をする取り巻きと僕に痺れを切らしたのか、須田がツカツカと近づいて来る。そして僕の襟を掴み、思い切り引っ張る。
 僅かな痛みと共にボタンが幾つか弾け飛ぶ。それに漸く、須田の思惑を知った僕は顔色を変える。
 須田は僕を裸に剥けと言ったのだ。
 取り巻き連中もそれと気付いたのだろう。四方から手が伸びて僕の服を剥ぎ取ろうとする。
 流石に抵抗して暴れるが、相手は複数、おまけに上級生ばかりなのだ。軟弱な僕とは体格が違う。
 トイレの床に押さえ付けられ、下着一枚にされてしまう。
 「それも脱がして」
 須田が舌なめずりしながら呟く。取り巻きがそれに従う。
 全裸にされ、引きずり起こされる。手で隠したいのだが、左右から腕を掴まれ不可能だった。屈辱に唇を噛み締めるしか出来ない。
 「ふぅん、痣だらけだ」
 僕の身体を上から下まで見下ろし、須田がクスクスと笑う。お前の所為だと言い返したいが、口を開けたら嗚咽が漏れそうだったので我慢する。その代わりキッと睨みつける。
 そんな僕の反応に気をよくしたのか、須田が更に笑顔を浮かべる。
 「いいよ、やっちゃって」
 え、と思う間もない。足元を払われて床に膝をつく。そのまま背中を押さえつけられ、四つん這いになるしかなかった。
 見えない背後でカチャカチャと何やら物音がする。続けてジッパーを降ろす音がして、僕は何をされようとしているのか漸く理解する。
 普通の暴力には飽きたので、今度は違う暴力を振るおうとしているのだ。
 まさかここにいる連中にそういった趣味があるとは思わないが、何しろ高校生なのだ。ふとしたキッカケで高まる事もあるだろう。この場合、何をしても許されるという状況が性欲の引き金になったのだ。
 「やだ、離せ!」
 始めて大声を上げる。痛いのは我慢出来るが、服従だけは出来ない。
 抵抗しようとして顔を上げる。その途端、須田に髪を鷲掴みにされ、痛みに涙が滲む。
 「泣いちゃって、カワイソウ」
 クスクスと意地の悪い笑い声を上げながら僕の口に指を押し込む。咄嗟に噛み付くと、頬を張られる。その衝撃に僕の視界がガクガクと揺れる。
 その隙に須田が「やっちゃって」と取り巻きに命令する。
 一人で終わる訳がない。このままだと、この場にいる全員に犯される。考えただけでゾッとして吐き気がこみ上げるが、腰を掴まれ抵抗すら出来ない。
 「そこまでだ」
 閉め切ったトイレのドアが開いて、落ち着いた声が聞こえる。それに全員が凍り付いたように動きを止める。
 真っ先に動いたのは僕だった。押さえつける手が緩んだ隙に逃げ出し、トイレの隅に駆け込む。そんな僕を目で追いながら須田が憎々しそうに口を開く。
 「卯木、お前……」
 須田の言う通り、僕を助けてくれたのは三年の卯木だった。
 黒髪は真面目そうに見える筈なのに、卯木に限ってはそう見えない。緩い巻き毛で目元を隠しているからかも知れない。いや、僕が卯木に対して偏見を抱いている所為だ。
 卯木は生徒会長でありながら派手な女遊びで有名だった。他校の女子だけにとどまらず大学生や社会人、果てには人妻とも関係を持っているという噂だ。だから遊び人として僕の記憶に刻まれている。
 確かに卯木は高校生にしては大人びた風貌をしている。そのアンバランスさが女にとっては魅力に映るのかも知れない。だが、身に纏った空気は冷たく、優しさなど欠片も感じさせない。
 そんな品行方正とは言い難い卯木が生徒会長をしている理由は一つだ。
 頭が切れるのだ。
 成績は勿論だが、それ以外の所でも卯木は頭がいい。更には、要領がよくて押しも強い。どんな状況でも、自分の思う通りに周囲を動かしてしまう。この男が言えば晴れの日でも雨だと思ってしまいそうになる。それほどに説得力があり、また強いカリスマ性もあった。
 そして、権力に媚びるような男ではない。何しろ世界中で自分が一番偉いと思っているような奴なのだ。
 須田を止められる者は誰もいないと言ったが、卯木だけは例外だった。この二人は幼馴染みなのだ。
 「邪魔するなよ」
 須田が尖った声を上げる。それに対して卯木がニッと唇を吊り上げる。
 「いいね、ヒカリの邪魔が出来て楽しいよ」
 幼馴染みと言っても高校生にもなれば、その関係は変化するのかも知れない。とてもではないが仲良しには見えない。
 トイレの隅で慌てて服を着ながらそんな事を思う。飛んでしまったボタンを拾い集める気にはなれず、仕方なくネクタイで誤摩化す。
 「行くぞ、佐伯」
 卯木にそう声を掛けられ、訳が分からないまま廊下に出る。

miu 2

 数歩進んだところで、卯木に付いて行く理由がない事に気が付く。
 助けて貰った事は感謝してるが、僕は余り卯木を好きではない。はっきり言ってしまえば、嫌いだった。
 卯木の横柄な態度が嫌いだ。周囲を見下し、それを隠そうともしない所が大嫌いだ。
 傲岸不遜を絵に描いたような男なのだ。好きになる要素なんてこれっぽっちもない。
 そして何より、僕は卯木にナンパされた事があるのだ。お互いに相手を見誤っただけだ。
 卯木が誰かをナンパするのに理由なんかない。ただ目の前にいたから、それだけの理由で女を誘い口説き落とす。そして、卯木は僕を女だと思って声を掛けて来たのだ。
 そして僕の方はと言えば、当時は卯木に対して淡い憧れのようなものを抱いていた。外見も性格もまるで違うが、僕は卯木に自分と似たものを感じていた。
 もしかしたら、この男だけは僕を理解してくれるのではないか。そんな期待を抱いていた。
 だが、僕の期待はすぐに裏切られた。
 問答無用とばかりに、強引にキスされただけでも腹立たしいのに、それに対する謝罪がないのも気に入らなかった。
 足を止めると、卯木が怪訝そうに振り返る。
 「どうした?」
 「ここで失礼します」
 嫌いな相手とは言え、上級生だし助けて貰ったんだ。頭ぐらい下げる。だが、これ以上はごめんだ。
 立ち去ろうとする僕の肘を掴んで「どこに行くんだ?」と卯木が低い声で呟く。
 「そんな格好で家に帰るつもりか?」
 言われて自分の姿を見下ろす。
 ボタンが取れているのは分かっていたが、あちこちに血が付いている。
 「唇が切れてる、手当てぐらいしてやるから来い」
 「保健室に行きます」
 「どう見ても殴られた痕だな。どうして怪我をしたのか訊ねられたら何て答えるつもりなんだ?」
 怪訝そうに首を傾げる卯木に、微かな落胆を覚える。そして、すぐに舌打ちしたい衝動に駆られる。
 憎まれ口を叩いていたが、須田を心配しているのだ。だから僕の口から事実が漏れては困ると言った所だろう。
 遠回しにではあるが、卯木は須田を庇っているのだ。だからこその落胆であったし、また微かな嫉妬でもあった。
 どうして僕が嫉妬なんか。それが忌々しくて舌打ちしたくなったのだ。
 だが上級生、それも生徒会長相手に舌打ちする訳には行かないので顔を顰めるにとどめる。
 「転んだとでも言って置きます」
 「そんな嘘に騙されるバカはいないよ」
 いいから。
 そう言って卯木は僕を引きずるようにして歩き出す。振り払ってしまいたいが、身長差を思って諦める。その代わり、トイレに残して来た須田の事を考える。
 これまで数々の嫌がらせをされたと言うのに、僕は須田の事が嫌いではない。
 高慢で鼻持ちならない奴ではあるが、須田をそうさせているのは周囲なのだ。全てにおいて恵まれている須田だが、もしかしたら満たされてないのかも知れない。僕とは違う孤独を抱えているのだ。怒りや暴力は淋しさの裏返しなのだろうと思う。だからこそ、諦めの態度ではあるものの、須田に対して抵抗しなかったのだ。僕と須田はよく似ている。
 もちろん、僕が勝手にそう思っているだけなので事実は違うかも知れない。
 僕の何かが須田の気分を害しているだけ、その可能性は充分にある。或いは僕と同じように自分と似ていると思うからこそ攻撃して来るのかも知れない。近親憎悪という言葉の通りだ。
 「どうぞ」
 卯木の言葉に思考を破られハッとする。
 連れて来られたのは生徒会室だった。入るのは始めてだったが、思ったより何もない。机と椅子が幾つか並んでいる他はスチールラックがポツンと壁際に置かれているだけだった。
 「適当に座って」
 促されるまま窓際の椅子に腰掛ける。卯木はラックから小さな缶を取り出す。お菓子の缶だが、蓋を開けると消毒薬やガーゼが入っている。
 「保健室に行けない怪我をする奴がいるんだ。これで足りない場合は病院に行かせている」
 キョトンとする僕にそう説明すると、慣れた手付きでガーゼを小さく切り分ける。
 「自分でやります」
 これ以上、卯木に借りを作るのは恐ろしかった。特に返せとは言わないだろうが、心理的な問題だ。
 慌てて手を出す僕に、ニコリと口元だけで微笑んで見せる。
 「ここまで来てそれはないだろう」
 楽しそうな卯木の様子から察するに、怪我人の手当てをするのが好きなようだ。だったら下手に機嫌を損ねるより、さっさと終わらせた方がいい。
 手を引っ込めた僕の口元をガーゼで丁寧に拭って行く。その際、故意か偶然にか卯木の指が僕の唇を掠める。
 「佐伯は祐希って名前だったな」
 軟膏を塗り付けられてる途中だったので声に出さず頷き返す。
 卯木に手当てして貰っているのだから、至近距離で向かい合うのは仕方ない。そうは思っても気まずさを持て余してしまう。まさかマジマジと見つめる訳には行かないからだ。だから卯木が話しかけてくれて少し助かる。
 「入試トップだったと噂があるのに最近は成績が落ちてるそうじゃないか。何か理由でもあるのか」
 学年の違う卯木がそんな事を知っているとは思わなかったので、つい驚いた顔をしてしまう。そんな僕を見て、ティッシュで指先を拭いながら卯木が「ん?」と促して来る。
 「別に……元々その程度だったってだけです」
 須田の事は嫌いではないが、殴られるのは厭だった。だから僕は何事においても目立たないように努めていた。成績も外見も、全て平均内にとどまるよう努力していたのだ。
 しかし、それを卯木に話すつもりはない。血も止まったようだし、礼を言ってジャージに着替えて帰ろう。
 それなのに卯木の追求は止まらない。
 「成績が落ちたと言うより、クラスの平均に君が合わせていると言った方がいいのかな。面白いほどに君の成績は軒並み平均点ばかりだ」
 「偶然でしょう」
 実際そうなのだが、僕は無表情に否定する。それに対して卯木は「意外にしぶといな」と溜め息を零す。
 「話を変えようか」
 どうやら僕を解放する気はないらしい。それに付合う義理などないのだが、この男に逆らう事など誰にも出来ないのだ。理屈ではなく、心情としてだ。
 考えてみれば、この部屋に足を踏み入れた時点で僕はこの男の術中に嵌っていたのかも知れない。
 「どうしてヒカリが君を狙うか、その理由に心当たりは?」
 「ありません」
 心当たりがあったら、僕だってそれなりの対処をしている。だから須田はただの気紛れで僕をいたぶり楽しんでいるのだ。
 僕の返事に呆れたとでも言うように、卯木が大袈裟に肩を竦める。
 「ヒカリが聞いたらガッカリするだろうな」
 「……何か知ってるんですか」
 一瞬の間があいたのは卯木を何と呼べばいいか分からなかったからだ。
 先輩、会長、卯木さん。どれも口にしたくなかった。この男には『お前』とか『コイツ』で充分だと思っている。
 「小学生がよくするだろ、好きな子をいじめて泣かせるって」
 話には聞いた事あるが、そんな小学生が本当にいるとは思えない。
 恋愛とは言えないかも知れないが、異性を好きになると言う事はその手前だと思っていいだろう。だったら、それなりに心が発達している筈なのだ。好きな相手に嫌がらせをして得する事など何もない。そう判断出来るほどには大人になっていると言う事だ。そもそも、僕も須田も男だ。
 怪訝な顔をしたからか、卯木がおかしそうにクスクスと喉を鳴らす。
 「ヒカリは屈折しているから、素直になれないんだ。それでいつも損ばかりしていると言うのにね」
 どうやら須田の気持ちを理解出来ていないと思われたらしい。だが、わざわざ訂正する事もないだろう。
 「自分が好きになったんだ、相手にも自分を好きになって欲しいと思うのは当然だろう?」
 「だとしても須田先輩は違いますよ」
 「どうして?」
 「本当に僕の事が好きなら、あんな事はしないと思います」
 僕は須田の取り巻きに輪姦される所だったのだ。好きな相手にそんな事をしようだなんて普通、思わない。
 「そうかな、私はそうは思わないね」
 「どうしてですか」
 「ヒカリが君に直接、暴力を振るった事はあるかい?」
 その言葉に僕は記憶を手繰ってみる。
 須田はいつも命令するだけで僕に手を出した事は一度もない。さっき顔を叩かれたのが始めてだった。
 「いじめると言っても相手を好きなんだ。傷つけるのを恐れたんだろうな」
 「だったら最初からそんな事をしなければいいじゃないですか」
 「私に言われても困るよ」
 僕の言葉に卯木が無責任にも肩を竦める。生徒会長という立場にありながら、この態度。幼馴染みのした事に対して少しぐらい責任を感じて欲しい。
 そんな思いが顔に出てしまったのだろう。卯木が「しかし」と言葉を続ける。
 「可愛いものじゃないか」
 可愛いってどこが?
 須田の顔立ちは確かに可愛いとは思うが、行動はこれっぽっちも可愛くない。それどころか僕にとっては迷惑なだけだ。
 「ヒカリは少しでも君と繋がりを持ちたかったんだ。健気だな」
 感心したように卯木が呟く。そんな事を言われても僕に返す言葉はない。
 僕は須田の事を嫌いではないが、好きでもないのだ。しかも本人以外から気持ちを告白されても困る。どういう種類の『好き』なのか分からないからだ。
 「君に近づくには他に方法がないと思ったんだな。君は委員をしている訳でもなく、部活にも参加していない。他に三年生が一年生に声を掛ける機会は滅多にないだろう?」
 「用があるならそう言えばいいだけじゃないですか」
 「君が拒んでいるんだよ」
 告げられた言葉にキョトンとする。
 拒む?
 僕にそんなつもりはない。話しかけられれば普通に返事するし、それが下らない内容でもそれを顔に出した事はないと思う。
 「君に話しかけるのは勇気がいるんだよ」
 「え?」
 何を言われたのか理解できず、首を傾げる。
 勇気がいると言われても、どうしてなのか分からない。
 「いつも無表情に取り澄ましているだろ、君ぐらいの美人がそんな顔してたら誰だって声を掛けにくいものだよ」
 さり気なく『美人』とか言われたが、注目すべきはそこじゃない。
 無表情だと言うが、僕にだって喜怒哀楽はある。怒ったり悲しんだりは滅多にしないけど、笑う事ぐらいあるに決まってる。
 「その目だ」
 唐突に顔を指差されてビクッと肩が震える。僕の目が何だと言うんだ。
 「感情の籠らない硝子みたいな目をしている。君が何を思っているのか分からないけど、見つめられる方は蔑まれていると感じるんだよ」
 「蔑むって……どうして、」
 「そりゃ、君に対して疾しい思いを抱いているからさ」
 そう言って指を降ろす。意味もなくそれを目で追いかけ、卯木が綺麗な手をしている事に気付く。指が長くて爪の形も綺麗だ。もしかしたら何か手入れをしているのかも知れない。
 「好色な視線に晒されているんだよ、君は」

miu 3

 厳しい卯木の声にハッとして目を上げる。黒い髪の間から卯木が僕を見つめている。
 「だからと言って僕にはどうする事も出来ません」
 見たい者は見ればいい。
 視線に物理的な力はないのだから、僕にそれを止める権利はないし、特に害もない。
 卯木の言う通り、僕の事をそういう目で見ている相手がいるとする。もしかしたら僕はそいつの脳内で何回も抱かれているかも知れない。だが、それを現実に移さない限り責める事は出来ないだろう。
 「否定しないね」
 ニヤッと卯木が唇を歪める。何となく、罠に嵌ったような気がするのは錯覚だろうか。
 「何をですか、」
 警戒しながら問い返すと「周囲を見下していると言う事を」と卯木が返して来る。
 「君は周りにいる全員を蔑み、誰とも関わりを持とうとしない。そうだね?」
 目眩のような衝撃に襲われる。
 どうして、こんな奴に見透かされてしまったのか。上手く隠せていると思ったのに。いや、それより早く否定しなくては。
 焦る余り言葉が浮かばず、ただ口を開ける。そのタイミングを計っていたように卯木が言葉を繋げる。
 「分かるよ、私も同じだから」
 それまでのニヤニヤ笑いから一転して真剣な顔をする。
 完全に置いてけぼりだった。何をとか、どうしてとか、そんな言葉すら思い浮かばずポカンと卯木を見つめる。
 「飛び抜けているからこそ誰にも理解されない、私たちの根底にあるのは孤独だよ」
 「僕は……お前とは違う」
 なりふり構っている余裕などなかった。
 真実を口にされ、僕は逆上していた。いや、混乱していたのだ。
 小さい時から誰も僕の言葉を理解してくれなかった。相手の言葉を先回りばかりする僕は厭な子供として疎外されたのだ。
 家族も教師も同級生も、誰一人として僕を理解しようとしなかった。だから僕も理解しない。
 世界から弾かれたのだ、だったら僕もこんな世界いらない。
 卯木は確かに優秀だ。それ故に子供だと言うのも事実だろう。だが僕なんかよりずっと器用に生きている。
 きっと卯木の本性は残忍で酷い男なのだ。それなのに女にモテると言う事は、上手く自分を隠している証拠だ。僕にはそれが出来ない。
 だから誰とも親しくならず、輪に入る事が出来ないのだ。
 「どう違う?」
 俯いた僕の肩に手を乗せ、卯木が唆すように囁き掛けて来る。
 「淋しいからって女に逃げたりしないし……キスした相手を忘れる事なんか出来ない」
 これじゃ告白したも同然だ。
 僕は卯木を嫌っているが、同時に惹かれてもいるのだ。
 その強いカリスマ性、卯木なら僕の全てを理解してくれるかも知れないと心のどこかで期待していた。
 「忘れてないよ、祐希」
 耳元で名前を呼ばれ、ビクッと背中が震える。
 マズい、このままだと卯木に流されてしまう。焦った僕は更に墓穴を掘ってしまう
 「忘れてたんだろ、僕を女と間違えてナンパしてキスまでしといて放ったらかしだ。そんなに下手だったか」
 「間違えたんじゃない、祐希の事は入学した時から知っていたんだから。ああでもしなかったら声を掛けられないと思ったんだよ」
 「嘘だ、単に忘れてただけの癖に」
 そう言って口元を手で押さえる。これ以上は駄々を捏ねるのと一緒だ。いや、もう既に充分過ぎるほどに駄々っ子だ。
 下を向いた僕の髪を軽く撫で、そのまま頬に滑らせて来る。それに促されて顔を上げると、卯木が困ったように小さく笑っていた。
 「あれから何度も話しかけようとしたさ、でもお前に話しかけるのは勇気がいると言っただろ?」
 「じゃ、どうして」
 今日に限って話しかけて来た。そう言おうとして気が付く。この男、幼馴染みを利用したんじゃないだろうな。
 「そうだよ。ヒカリには悪いがチャンスだと思った」
 ああ、やっぱり……コイツにとっては幼馴染みですら駒の一つに過ぎないのか。
 「悪いなんて思ってないだろ」
 拗ねた声で問いつめると、ニコッと笑って誤摩化す。酷い男だ。
 「助けてやったんだから文句はないだろ?」
 それはそうだけど。
 卯木の事だから、もっと早くから外で聞いていたに違いない。ギリギリまで放置する辺り、感謝するには値しない。
 だから僕は手を降ろして非難の眼差しを向ける。
 「どうしてもっと早く助けてくれなかったんだ」
 そうすれば僕は裸にされる事もなく唇を切る事もなかったんだ。それなのに卯木は嬉しそうにニコリとする。
 「祐希の裸が見たかったから」
 「最低だ、お前」
 横を向いて吐き捨てるように言うと、「褒め言葉だと思っていいのかな?」と卯木がふざけた事を抜かす。
 「祐希、」
 卯木が不意に僕の名前を口にする。その声は苦く甘く、僕の身体を震わせる。
 「お前には私が必要だろう?」
 「……自惚れてる」
 決めつけるように言われて腹を立てるよりクスッと笑ってしまう。
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